本作『ありか』は、愛知県芸術劇場のプロデュースのもと、ジャンルも方法論も異なる二人のアーティストが、相手のフィールドに飛び込み、自身の固定観念を揺さぶりながら新たな創作に取り組んでいます。さらに、本作のクリエイションには、衣装や照明、音響、宣伝美術に至るまで、同時代の多彩なアーティストが参加しています。ここでは、タイトル「ありか」に込めた想いと、ダンスとラップという身体表現に向かうアーティストの思考を、出演者の島地保武と環ROY、そして愛知県芸術劇場の唐津絵理との鼎談から紐解きます。
唐津絵理 : 島地さんから、本作の構想を最初に聞いたとき、作品のコンセプトに「踊りの起源」「音楽の起源」というキーワードがあったんです。作品を通じて、それぞれのフィールドやお互いの表現の起源を探ろうとする今回の新作は、きっとジャンルを超えて様々な人が見て共感できるものになるんじゃないかと。さらにラップは初の試みになるので、初日の公演時間を平日の20時という遅い時間に設定して、チケットも低価格にすることで、少し敷居を下げて、これまでの観客層とは異なる新しい方々に来てもらいえるよう意図しました。
私は、「ありか」というこのタイトルを、表現の起源、その由来や所在を示すものとしてダイレクトに受け止めています。実際、このタイトルを選んだのは、どういった経緯があったのでしょうか。
島地保武 : 「ありか」には、もののはじまりで「起源」という意味があります。それと、いま現在に関する「行方」「ある所」という意味の在処(ありか)。あと、ここではない、どこかを指す「ありか」。永遠性が含んでいるのがいいなあと、このタイトルに決めました。
環ROY : 3文字で、ひらがなで、かわいいし、含みが多くて、抽象度も高い。起源だったり、所在だったり、過去にも、現在にも、未来に対しても使う言葉ですよね。「ありか」には、時空間も超えるような印象があります。僕は楽曲をつくるときに考え込んで固くなりがちなので、タイトルはいつも軽くしようとするんです。「ラッキー」(2013年にリリースされた環ROYの4枚目となるアルバム) もそうですね。できる限り、抽象度を高くしようと、二面性を孕むタイトルをいつも考えるようにしています。
島地保武 : 僕も、作品に対するテキストを書く際に、考えすぎて文章に迷いが出ちゃう経験があって。だから、最初に生まれた言葉や感覚を大切にするようにしています。「ありか」というのは、モノの名前ではない。作品に対して想像を誘発するトラップみたいなものです。
唐津絵理 : 想像力の飛躍ができる隙間のある言葉だと感じました。さらにこのタイトルは、作品や物語の名称ではなくて、今回の創作に対するお二人の動機を体現するものと思えるんですよね。だからこそ作品自体も、いわゆるダンスとラップのありがちなコラボレーションにはならないでほしいと考えています。例えば、島地くんがダンスを踊って、環くんが音楽や作詞をするというような、両方の役割が予め決まっているような創作ではなくて、それぞれのフィールドから互いのフィールドに手を伸ばしていることがわかる作品になってほしいと思っています。
環ROY : 僕も、それ以外ないと思っています。
唐津絵理 : 新しいものは敢えて作る必要はないけど、予定調和的なものにはなってほしくない。もしかすると、それがダサいラップや、ダサい踊りにもなるのかもしれない(笑)。でも、島地くんから「環くんとやってみたい」って聞いたときに、「これはジャンルを横断するコラボレーションに長年取り組んできたこの劇場でやるに相応しいかも!」って思ったんです。この企画自体を成立させたいと思ったのは、この異種の二人なら想定外の作品が創れるのではないかという期待、そして互いのフィールドが交わったところにある見たことのない、新しい創作に対しての期待があるんです。
島地保武 : 僕が環くんと作品をつくろうと思ったのは、どうしてかなぁと改めて考えてみたんです。たぶん、動きとか、仕草なんですよね。環くんの場合は、ワインの持ち方。マイクを持つようにワイングラスを持つのを眺めていて、あーなんか面白いなと。他の人に対してもそうなんですが、僕は、仕草のなかにアイデアが見えちゃうときがあるんです。
環ROY : すごい角度から来ますね。
唐津絵理 : (笑)。最初に知り合ったきっかけはどういうものだったのですか。
島地保武 : 2013年にアルトノイ (島地保武とバレエダンサー・酒井はなとのユニット) の新作を発表した際、共通の知り合いだった石黒宇宙くん(「ありか」宣伝美術担当)と一緒に、環くんが彩の国さいたま芸術劇場に見に来てくれたんです。そのときの打ち上げに環くんも来てくれて。で、そのときのワインの持ち方(笑)になるんですが。もちろん、環くんの音楽も聞いていたし、名前も知っていました。
唐津絵理 : その出会いから始まって、一緒にやってみたいと思ったのはなぜですか?
島地保武 : 出会う前から音楽家としての興味はありました。環くんの楽曲はラップのなかの言葉がきちんと聞こえてくる。それが好きでした。そういった彼の楽曲や音楽家としての活動にプラスして、動きにも興味があったんです。環くんの動きが面白い、というのは実は僕の知人も指摘していたんです。実際に、環くんは人が何年も訓練をしてできるヨガポーズもすぐできちゃう。生まれながらにしてのヨガマスターでした。
唐津絵理 : 私は、環さんのラップは名古屋で開催された蓮沼執太フィルで一度だけ聞いたことがあったのですが、そのときは沢山の出演者がいたので、実は印象が薄かった(笑)。で、検索してPVをみたら、確かにすごく動きが面白い。普通のラップのイメージよりも動きが残るというか。ラップでイメージされる言葉の踏襲やせめぎ合いよりも、軽さのある動きのほうが印象に残りました。だから島地さんが環さんと一緒にやりたい、というのが、しっくり来たし、この二人の共同制作なら是非プロデュースしてみたいって思いました。
環ROY : たしかに、ラッパーで動きが面白い人は多いですね。パフォーマティブな人が多くて、振付的な運動神経もあるんじゃないかと思います。唐津さんが僕の映像を見て感じたように、僕もラッパーの映像を見る際に動きも見ます。というのも、ラップをしようと入ってくる人たちは、言葉ももちろんですが、ラッパーを動きも含めて図像として見て、それをかっこいいと思ってる人が多い。一方、だからこそ、みんな同じような動きにもなるんです。
唐津絵理 : 言葉と動きはある種、異なるベクトルにある表現ですよね。ラッパーは、それを同時にパフォーマンスするマルチな存在とも言えますね。
環ROY : そうなんです。だから、ラップを言葉と動きが一体化したものとして、身体操作のひとつのジャンルとして論じることも可能だと思います。それに、ラップには、流行する動きというのがあるんですよ。たとえば、ギャングのある種暗号めいた仕草や、車を運転するような仕草とか。
唐津絵理 : よく見ますね。
環ROY : 例えばたくさん宝石を付けるタイプのラッパーが、手首に付けた宝石を落とさないように動作をつくったとします。それがかっこいいとなれば、みんながマネをしていくんです。ラッパーのパフォーマンスや仕草が似ているという指摘とか、ラッパーの動きを解体して振付に組み込む、というアーティストもいますが、そもそもそういうものではない。「ラップ」という同じ競技にエントリーしているから、みんな自覚的に敢えて同じことをしているんです。そういう動きの継承のあり方は、身体表現というよりもは、もっとスポーティブなものと言えるかもしれません。
島地保武 : 流行をやる、ということはダサいことではなく、まずはコミュニティに入る、ということが最初にあるということ?
環ROY : そうですね。ひと通り流行して、時間とともにすたれていく。それがループされていくというか。芸術的な営み、というよりも、大衆文化の伝播のプロセスが中心に据えられています。ジャマイカの場合は、著作権がないから、ヒット曲をどんどんコピーしていくでしょう。そういうラップの作り方って、ポピュラーカルチャーの伝播のあり方そのものとも言えるんじゃないかと。
唐津絵理 : ラップというのは内側からのメッセージが強くて、社会への主張をもっている人がやっているという印象があるんですが。
環ROY : そんなことないですよ。概観で言えば、アメリカのラッパーが言うこともこの10年くらいさほど変わらない。日本語のラップに関して言えば、つかみ所がない、何をすればいいのかはわからないというか。ラップに入ってくる人って、主張があるというよりもは、ラップに関するライフスタイルがかっこよくて、そのコミュニティの一員になりたいと思うほうが多いんじゃないかな。いまはファッションとして感じ取られていることのほうが強いように思いますね。
島地保武 : となると、ラッパーの動きのオリジナルはどこにあるんでしょうか?
環ROY : もはや完全なオリジナル、となればキャッチアップされないと思います。いい悪いは置いといて、経済的に自律するためには、既存のものを7割くらい継承せざるをえない。それを10年繰り返して、徐々にラップの形態が変わっていくような。ラップという身体表現や、振付、動きのオリジナルがあるとすれば、それはラップというジャンルを捉えたときに見えてくるんでしょうね。ラップをひとつの人格と捉えた場合に成立する、とでも言うような。
唐津絵理 : 大衆文化の伝播の話がでましたが、その歴史的文脈における「ラップ」というジャンルのなかで、環さんは自分の活動をどのように捉えていますか? みんながやっていることから敢えて遠ざかってみたり、流行している振りはやらない、言葉は使わないとかのご自身のオリジナルのセオリーはあるんですか?
環ROY : 「ラップ」という競技にエントリーしていて、みんなと一緒に様式の上を走っている意識はもちろんあります。でも、全く別のことをしているという意識もある。ある意味、全く別のことをしているんだけど、様式に戻ったときに自分自身のオリジナリティにもなるかもしれない、とは考えています。だから、自分のなかではどちらも延長線上にあるんです。明確には分けられない。
唐津絵理 : 今回の舞台作品で到達するであろう表現は、ポピュラーミュージックというマーケットのカテゴリーではなく、そこをはずれたところでの挑戦になるかと思います。それを、「ラップ」というジャンルに居る人にも見てほしいとは思いますか?
環ROY : もちろん思います。マーケットありきではない表現、というのは僕にとって非常に新鮮でやりがいのある取り組みです。なぜなら、広告的にやることを強いられることが多い立場にあるから。マーケットありきでのみ作品をつくり続けると、すこしずつ消耗していくような気がします。だから今回のような機会をすごく大切に思っています。
唐津絵理 : 音楽業界では「好きなものつくっていいよ」というオファーはないのでしょうか。
環ROY : 僕の場合は、「好きなもの」の行間に、いろいろ出てくるんです。CDショップのどのコーナーに入るのか、まずはジャンルの規定が前提となります。ポピュラーミュージックでの表現というのは、どうしてもフォーマットが先行しがちだと感じています。1曲が3〜4分で、アルバムが40〜70分という形式は、レコードというメディアの歴史と深く関係していますしね。
島地保武 : こういう風に考えているところが、環くんの面白いところだと思うんですよね。問題意識をもっているからこそ一緒にやっています。そうでなければ、交わることもなかったのかもしれない。ダンスにももちろんジャンルはあります。で、ちょっと今気づいたのですが、今回のチラシには「コンテンポラリー」という言葉が入っていないんですね(笑)。
環ROY : それいいですね。とくに音楽の場合は、「なんのジャンルですか」ってまず聴きますよね。もう辛いです(笑)。ダンスだってね、天に拝んでたわけじゃないですか。たくさんの食べ物を得られますように、って。能は?コンテンポラリーは?って追求しても、カテゴライズできないものもある。カテゴリーは便利だし、かかせないものだけど、そうじゃないものが少なすぎるので…こんな風に余計なことを言いたくなります。
唐津絵理 : 私は「コンテンポラリーダンス」が一般的になってきたころから、あえて「コンテンポラリー」という言葉はあまり使わないようにしています。ジャンルの枠にカテゴライズしたくないし、作り手にはそこから楽になってほしいから。枠のなかにはまらないことに絶望しないでほしい。
環ROY : でも、敢えてカウンターを言うならば、「これでいいんだ」というノリだけでもだめなんですよね。例えば古典的バレエの世界観への反逆として、モダンダンスの理論が生まれたみたいな流れやフレームも引き継がなくてはいけない。いずれにせよ、ひとつしか選択肢がない、というのは辛い。
島地保武 : それか、絶対的にそのフレームの中で極めなさい、ということでしょうか。そしたらその次が見えてくる。
唐津絵理 : 島地さんには先ほどお伺いしましたが、環さんから見た島地さんの存在とは?
環ROY : ジャンルオリエンテッドでありつつも、フレームから逸脱しようとしている人はあまりいない。島地さんの場合は、「コンテンポラリーダンス」にありつつも、そこだけではない。その感覚を前提でつきあえるんですよね。僕は広告的な表現に慣れてしまっていると思う。でも、カンパニーで実績を積んできた島地さんは、たまに意味がわかんない角度から創作をやっていく。それは本当にすごいですよ。効率性、合理性を簡単に無視してくる。現代において、とても稀有で尊いことだと思います。
唐津絵理 : 作品のクリエイションをしていて、互いを見ながら自分自身にフィードバックするときはありますか。
環ROY : すごくありますね。まず、自分自身が、ポピュラーミュージックという様式にのっとって、その内部で思考してるんだな、と自覚的になります。あとは、創作にかける時間。僕の場合は、複製物を前提とした楽曲の制作をしているので、その場限りの作品にどのくらい時間をかけるのか。今回は4ヶ月近く時間をかけて、最近は毎日クリエイションをしています。それ自体が新しいです。
唐津絵理 : そうですね。ライブの舞台作品においてダンスと演奏があるとき、ダンサーの方は現場でなるべく時間を使いたいと希望します。一方で、音楽の人は、バシっとその場で決める。そこは、共同で創作する際の一つの壁にもなっています。それぞれの立場や考え方の理解ができて、はじめて創作に向かえるんですよね。
島地保武 : 海外のオペラ劇場でもそうですね。音楽の人はすごくリハーサルの時間が短いですが、ダンサーはとにかく長い。僕の場合は、重さや形があって、そこに身体が反応するところから創りはじめるんです。テーブルを置いて、身体の動きを探って、次はテーブルをなくしてみよう、というようなフォーサイスに影響を受けている方法です。なかでも、身体に1番影響があるのはやっぱりモノでなく人との関係ですね。制約もそこで生まれるからこそ、自由になれるんです。矛盾しているようですが。いつもと違う感覚になれる環境を自分でつくり出したいという欲求があります。
唐津絵理 : ダンサーの場合は、物理的な制約というものが身体に与える影響、そこから発想するんでしょうか。それに比べると、環くんは精神的なことから発想に帰結していますよね。物質的な身体表現と、音楽という抽象的で無形の物語との違いを感じます。島地さんも、環さんと一緒にやることで創作活動に影響があったりしますか?
島地保武 : この前、即興で踊り、それをリプロデュースする行為を繰り替えす、という手法をラップバージョンで試してみたんです。フリースタイルでやって、その言葉を書いてみる。それをテンポにはめてみたら、面白くない!と環くんが言い始めた。なるほどな、と。即興でラップをやる場合は、その瞬間に歌詞をつくっている。でもリプロデュースする場合は、言葉の並びや行間を考えて、その強度を突き詰めていくんだな、と。その発見で、僕自身もインプロビゼーションだけでなく、振付の良さを再確認しました。リズムや旋律にあわせて、動きやフォーメーションとかが緻密に構成された素晴らしい振付を、僕もこれまで何度も見てきました。だからこそ、僕の役目はそこにはないと感じていた。でも、今はやってみるか、と。
唐津絵理 : それでは、今回の作品でも、環くんに対して、きちっと振り付けをしてみようと思っていますか。
島地保武 : 作品全体のなかで部分的に即興をするということは今回も試すと思います。今までやってきたし、得意なことでもあります。ただし、技術やルールにのった上での例外というのを創りだしていきたいと思っています。フィーリングを大切にするためには、制約自体を共有することが大切だと感じています。
文・構成:廣田ふみ
写真:羽鳥直志