異なる領域で活動するダンサー・島地保武とラッパー・環ROYが、固定観念を揺さぶりながら挑んだ新しいスタイルのライブパフォーマンス。
踊りと言葉の起源を辿り紡いだ物語をベースに、即興による動き、音、声、リズムが時空を超えて交差する。
ダンスの在処、と、ラップの在処。
からだのありか。と、ことばのありか。
踊り手とMCの。偶然と必然の導きによる、出会いとみちゆき。
どちらもダンスし、どちらもラップする。
いつからそうなったのか。最初からそうだったのか。私は知らない。
島地保武と環ROY。二人は共演者であり、共作者であり、たぶん友人であり、ライバルでもある。
私は二人それぞれのパフォーマンスを過去に何度か観たことがある。
『ありか』を観たとき、二人それぞれの「らしさ」とともに、そのどちらとも違う、真新しい魅力を感じた。
それはケミストリーなどと呼ばれるものだろう。だが呼名はどうでもいい。
大事なことは、そこに身体と言葉の掛け算の、流行とは一切無縁の、新鮮な達成があったということだ。
それはおそらく、二人にとっても思いがけないものだったのではないだろうか?
身体表現の、舞台芸術の、プリミティヴなはじまりの場所。
ありかはどこ? ありかはここ。
ここからそこへ。二人の旅はつづく。
佐々木敦/批評家・HEADZ
まずは「ありか」を考えてみる。何処なのかとか、いつなのかとか。はて、「ありか」とは?
二人が演じる白いステージと黒の段床の連なりが次第にまちなかの風景に見えてきた。
ラッパーが呼吸をするように韻を踏んで音楽が生まれる。
ダンサーの特異な身体表現が自然に見えると、空気が踊りだす。
音に合って、離れて、自然に動いて 不自然に動き続けて、声に合って、空気を吸って、自然に音楽になって。
さらに互いの所作の隙間にある境界を入れ違い、交差して双方の領域を侵食しあっていくと、ますますその背景の見えざる風景と一体化していく。わたしの意識は劇場から外にでて、その視界は日常の一場面を垣間見る。道があって、塀があって、暗渠があって、街灯があって、人がいる。
二人のしぐさの中にある境界のズレが作り出す「ありか」とは、わたしが日々見ていた、いまここに在るのかもしれない。そこはわたしの目の前に幻灯のように現れて、消えて、白昼夢から目覚めるように終演する。
パフォーマンスが終わって外に出ると、そこにはありかが続いているのかも。
さわひらき/美術家
ラッパーとダンサーがいるふたりだけの舞台。ふたりとも、いわゆる「優等生」という感じではない。どちらも感覚の冴えた実力派だ。自分の力と個性で自身を鍛え上げ、この世界に躍り出たアーティストたちである。
環ROYは身体から音がでる。まさにその原点にさかのぼるようにしてラップを響かせる。そのとき彼の体はまるで新しいダンスフォームを探し求めているダンサーのように、不思議な動きをする。一方、島地保武はノイズムなどを経て先鋭的なフォーサイス・カンパニーのメンバーでもある。端正でありながら小さくまとまらない。ダイナミックに開かれた動きで大きく切り込む。
ジャンルも、パフォーマーとしての方向性もあまりに違うふたり。だからこそ彼らが正面から向き合って創りこんだものに、出会いたい。なまじっか「共通の理解」とか「互いにシェア」なんて、ないほうがいい。そのほうが、声、サウンド、身体、動きがどこかの時空でスパークするにちがいないのだ。そしてはるか遠い昔、ヒトが神話というものを語り始める以前の、生の「ありか」をそこに見るだろう。
石井達朗/舞踊評論家
「ダンスとラップ」という謳い文句からジャンルと文化の異種交配を期待し赴いたライヴパフォーマンス「ありか」。緻密さや構築性、それに抗う声と身動きの生々しさで空気を張りつめさせる島地と、海綿のような柔らかさと浮遊感で纏わりついてくる環、二つの身体が期待を越える化学変化を起こす。整合と不整合のあいだを往還するさまざまな関係性がシークエンス毎に展開、言葉とマイム、時差と誤差を伴う反復、無為なお喋りやディスりも含むバトルから組んず解れつの肉弾戦まで、ダンスや音楽の素養で読み込める意味のネットワークと、無垢な耳目を喜ばせるエンタテインメント性がともに提供される。感官を直截に刺激したり、陰影のダイナミズムで知的センサーを発動させたりする照明も効果的。同性という制約と自由を共有しつつ、手駒を惜しみなく晒して技を掛け合い、真剣で立ち向かう二人、揺るぎないスタッフの信念と25年の歳月を経て複合的な文化施設で育まれた観客の成熟が相まって、濃密な生を現出させた。
恩地元子/音楽批評家
環ROYの「ボアダム」は彼を取り巻く環境を日々変化させているというのは確実だろう。
むしろそれは彼自身をこれまで引っ張ってきた重要な要素かもしれない。
だからこそ物事の境界に興味を示し他者のロジック・仕組みに接触する事を試みるのではないか。
ポップ・ミュージックという立ち位置からの強固な逸脱と、それを支える分解と再構築の速度。
島地保武の持つ身体的な接続詞はあまりにも軽やかで驚かされる。
人が思うよりも少し近くまで入る距離感や空気感のコントロール。
何もしていないように見えて、すでに情報が開かれている。
他者の特異点を引き出し、絡まり、リミックスして、思いがけず進化するという事が生物の進化に欠かせない技術だとしたら、この公演は物理的にそれを確認するのにうってつけかもしれない。
領域や土地の移動になぜ他者を必要とするのか、あるいはなぜそこにその他者がいたのか。
塚原悠也/contact Gonzo
ありかは「在り処」の意味だろうか? 身体と言葉。それぞれの表現を得物とするダンサーとラッパーの共演(競演?)は、たしかにそれぞれの在り処を探す試みだと感じた。でも、それだけじゃない。彼らはそれぞれの在り処に潜入したり、交換したりする戯れのなかで、もっと別の世界にある、見たことのない在り処を目指そうとしている。島地保武の身体の柔らかなつらなり。環ROYの言葉の明晰さ。それらを通して、私も私の在り処を見つけた気がする。
島貫泰介/美術ライター・編集者
1978年長野県生まれ。2004~06年Noism、06~15年ザ・フォーサイス・カンパニーに所属しメインパートを踊る。13年に酒井はなとのユニットAltneuを結成。14年に「NHKバレエの饗宴」にAltneuで出演。資生堂第七次椿会メンバーになりパフォーマンスに加えインスタレーション作品を展示。近年の作品に15年Noism2『かさねのいろめ』、17年谷桃子バレエ団『Sequenza』、18年Noism2『私を泣かせてください』がある。またアーツ前橋「アートの秘密」展にインスタレーション作品を出品。
shimaji.jp1981年宮城県生まれ。これまでに最新作『なぎ』を含む5枚のCDアルバムを発表し、国内外の様々な音楽祭へ出演する。近年は、パフォーマンス作品『いくつもの一緒』金沢21世紀美術館(2014年)、インスタレーション作品『Types』寺田倉庫 T-Art Gallery(15年)、映画『アズミ・ハルコは行方不明』劇伴音楽(16年)、NHK教育『デザインあ』コーナー音楽(16年)などの制作を行う。
www.tamakiroy.com本作『ありか』は、愛知県芸術劇場のプロデュースのもと、ジャンルも方法論も異なる二人のアーティストが、相手のフィールドに飛び込み、自身の固定観念を揺さぶりながら新たな創作に取り組んでいます。さらに、本作のクリエイションには、衣装や照明、音響、宣伝美術に至るまで、同時代の多彩なアーティストが参加しています。ここでは、タイトル「ありか」に込めた想いと、ダンスとラップという身体表現に向かうアーティストの思考を、出演者の島地保武と環ROY、そして愛知県芸術劇場の唐津絵理との鼎談から紐解きます。
> Conversation for ありか
愛知県内には、小・中学生が一学年あたり約7万人います。愛知県芸術劇場では2015年度から地域の将来を担う子ども達を劇場に招待し、質の高い舞台芸術に触れてもらうことによって、子どもの文化芸術体験の充実を図る「劇場と子ども7万人プロジェクト」を進めています。
この「劇場と子ども 7万人プロジェクト」の一環として、学校単位で子ども達を舞台芸術鑑賞に招待しています。
Photo:杉和博
小刻みにさえずる環ROYと、体ごと大地とねんごろな島地保武。二人は鳥と獣ぐらい違っていて、その体を交互に見ることには、えも言われぬ恥ずかしさのような感情がつきまとう。鳥の文法で獣を見ると、しなやかに転調する筋肉のためらいのなさが不安になり、逆に獣の文法で鳥を見ると、言葉をドライブさせようともがく指先にふわふわと落ち着かない気持ちになる。
これほどまでに体の論理が違う二人が、自分の衝動を相手に向けて解放することは、けっこう怖い作業だったのではないだろうか。思ったのとは全然違う意味で受け取られるかもしれないし、そもそも完全にスルーされるかもしれない。でもそんな異質な相手に向けてだからこそ、どんなトリガーが埋め込まれているか分からないまま動いたり、自分でも気づかなかったような欲望を相手に引き出されたりするに違いない。自分をサーチライトにして相手を照らすような、相手をサーチライトにして自分を照らすような。そのみずみずしい探り合いにじっと目を凝らしていたら、なぜかキュンとしてしまった。
伊藤亜紗/東京工業大学・美学者